さまざまな顔を持つ幕末の偉人
文化15年(1818年)、伊勢國須川村(現三重県松阪市小野江町)に松浦武四郎は生まれました。
諸国をめぐり、武四郎は自らが見て、聞いたことを記録し、多くの資料を残しました。
その記録は、武四郎が自ら出版した著作や地図を通して、当時の人々に伝えられました。
16歳の江戸への一人旅をきっかけに、武四郎は諸国をめぐり、名所旧跡を訪ね、日本の百名山にも登ります。
ただその土地を訪れてみるだけでなく、野帳(フィールドワークのメモ帳)に土地の風土や文化を記録しました。
28歳には当時まだ人々にあまり知られていない蝦夷地(現在の北海道)へ向かい、約13年間に計6回の調査を行いました。
また晩年には、土地の人もあまり足を踏み入れない大台ケ原の調査も行っています。
武四郎は訪れた土地の地名、地形、行程、距離、歴史を調べ、人口、風俗、言い伝えを聞き取りなど、さまざまな調査を行いました。その記録は『初航蝦夷日誌』・『再航蝦夷日誌』・『三航蝦夷』などの日誌風の地誌や、『石狩日誌』・『唐太日誌』・『久摺日誌』・『後方羊蹄日誌』・『知床日誌』などの大衆的な旅行案内、蝦夷地の地図など多くの出版物が、世に送り出されました。
この多くの著作は、地図製作の基本資料となり、非常に多くの地名を収録していることから、アイヌ語地名研究の基本文献ともなっています。
武四郎は成果である151冊にものぼる調査記録をもとに、紀行本や地図を出版しています。
『壺の石』『於幾能以志』など、当時有名な本屋であった播磨屋から出しているものもありますが、多くは「多気志樓蔵板(版)」と自費出版を行っています。
この時代の本は、版木と呼ばれ木に文字を彫り紙に刷りあげる方法で、手間も費用も多くかかるものでした。
それでも、武四郎は世の人々に蝦夷地のことを知らせるため出版を行いました。
晩年の武四郎は骨董品の収集を趣味としました。全国各地をめぐりながら、特に奇石や古銭、勾玉の収集に熱中しました。武四郎の肖像写真には、武四郎が集めたたくさんの勾玉をネックレスにしたものが見られます。
68歳から、三重県と奈良県の境にある大台ケ原に登ります。68歳、69歳、70歳と3度にわたる大台ヶ原登山をおこない、その後富士山にも登っています。老いてもなお冒険心を持ち続けていた武四郎でしたが、明治21年(1888年)2月10日、東京の神田五軒町にある自宅で亡くなりました。
北海道の名付け親、松浦武四郎
武四郎が蝦夷地、現在の北海道に行くきっかけは、長崎で住職を務めていた時です。
長崎で北方地が危ないことを耳にした武四郎は、僧侶を辞め、北方地に向かいます。第一回から第三回までは一個人として、第四回から第六回までは幕府のお雇役人として蝦夷地を調査します。
当時の北海道は原生林が生い茂る自然豊かな土地で、整備された道はほとんどありません。武四郎が蝦夷地調査を行うことができたのは、古くからその土地に住むアイヌ民族の人々の協力を得ることができたからです。武四郎はアイヌ民族の人々に道を案内してもらい、多くの地名や伝承などさまざまなことを聞き取りました。その調査は樺太など島々にも及んでいます。武四郎はその調査記録をまとめて出版し、人々から「蝦夷通」と知られるようになります。
時代が明治にかわり、武四郎は明治新政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼されました。武四郎は「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられます。
「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、「人間」という意味です。
「北加伊道」は「北の大地に住む人の国」という意味であり、武四郎のアイヌ民族の人々への気持ちを込めた名称でした。明治新政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」としました。
武四郎はほかにも国名、郡名についての上申書も提出しており、その意見が取り上げられます。その土地の名前も、武四郎が蝦夷地を調査しているときにアイヌ民族の人々から教えてもらった土地名が由来となっています。